2023年8月25日 Lab.Firstを公開しました。

前編)学際とは何か ― 進化と深化

Lab First

宮野 公樹

京都大学学際融合教育研究推進センター 准教授

   博士(工学)。学問論、大学論(かつては金属組織学、ナノテクノロジー)。国際高等研究所客員研究

   員。日経STEAM、および日経こども未来経済フォーラムアドバイザー。京大総長学事補佐、文部科学省

   学術調査官の業務経験も。2021年5 月一般社団法人STEAMAssociation を設立し代表理事に。2008 年

   日本金属学会論文賞等、複数の学術系受賞の他、2019 年内閣府主催第一回日本イノベーション大賞の

   審査員特別賞も。前著「学問からの手紙̶時代に流されない思考̶」(小学館)は2019 年京大生協

   にて一般書売上第一位。近著「問いの立て方」(ちくま新書)。小中校むけ「世界が広がる学問図鑑」

   2023 年2 月(Gakken)の監修も

かつて、このような研究員公募があったそうです。「対象分野:生命科学全般(ただし文系除く)」。

私は、金属組織学で学位を取得しました。その後も金属研究を軸としながら、ナノテクノロジー、医工学とフィールドが変わり、現在は、哲学に近いところの学問論、大学論をやっています。いうなら、本誌の読者の皆様と同じように、私も「生命について研究をしている」といっても間違いはありません。なぜなら、<学問>においてその究極の問いは、我が生命、すなわち「存在」についての謎なのですから。

究極の問い

存在がなぜ存在しているか。それは一度死んでみないとわからない類の問い。物的に現存している人間には答えられないと感じつつも問わざるを得ない。考え尽くさなければ死ねぬ。そういう覚悟が精神を突き動かす脈動にも似た思惟の営みが、<学問>です。もっぱら最近は、古典を調査し、分類、分析し、何かをまとめるといった作業や、様々な分野の研究者と研究会を重ねることもさることながら、「ここにすべてが書かれている」と確信した数冊の愛読書との対話と、<常識>を持ってして思考すること、この2つさえあれば事足りると感じています。はたから見れば、ぼーっとしていると思われるような時間が何よりも大切となっている次第です。

これをお読みになり、皆様は「あー、私(生命科学分野)の研究の進め方とは、やっぱり全然違うなぁ」とお感じでしょうか。どこが違いますか?  または、どこが同じですか?

学際とは

冒頭でも書いたように、私もかつて医工学の分野で細胞を扱う研究もしていましたが1)、当時の研究と哲学の営みは完全に接続されていることを感じます。これは、「実験をするかしないかの違いはあるが、生命を扱うという点では同じ」という意味合いではなく、同じ私(という存在)が実施したという事実についてのことです。その意味で、科学的研究であろうが、哲学的研究であろうが、それは私の内側にて連続性を保ち、私の存在( の意味) に還元され、この一文字一文字の言葉に表顕しているわけです。

――世間では、学際が大事だ、異分野連携しなくては! と声高々なんです。 

よく知っています。しかし、少し考えてみれば、学術の歴史上、何かと何かの分野が融合していない分野などないので、今日の学術分野は学際や既に異分野が融合した結果、とも言えます。それに、研究活動以外に目を向けてみると、日々において研究をしていない時間は、というより暮らしの殆どは異分野、異業種との関わりで成り立っています。帰路の途中にコンビニによれば、熾烈な経済合理主義における競争の結果としての商品をお選びになるし、海外から来られたバイト店員さんとやりとりをなさっている。帰宅したらしたで、同居人がいる方々においては、パートナーや子どもとの対話はいうまでもなく他人(別人格)との接触です。

そう考えてみると、「学際が大事!」「異分野連携するにはどうすれば?」などと騒ぐことが、なんだか狭い世界の話で、非常に物的な感じがしてきます。

研究という営みがどのような存在の上にあるのか

例えば、前述のように、そもそもすべてが学際的であるのだった、といった気づきは、「この世に”融合”していないものなど何一つない」といった<常識>に注意深くなりさえすれば容易に感じられることであり、そのような透明な目線により<常識>を問うことこそが<学問>に他なりません。思えば、ニュートンだって、りんごが枝から地面に落下する<常識>に心底驚いたからこそ探求が始まったのでした。常識、常に識(し)られていること、当たり前のこと、なぜだかわからないがそうなっていることa。この不可思議への驚嘆を忘れ、自然、この世、この宇宙への畏怖を横置きしたような探求は、微に入り細に入るだけで進化はしても深化はしません。

a: 今日、「日本の常識、世界の非常識」なんて言葉がありますが、この常識の使い方は、正しくありません。常識が国や人によって変わるわけがありません。常識の定義に反するのです。この場合は、慣習といった意味合いでしょう。

進化と深化

進化とは、本論考では進展という意味合いで使用しますが、どんどん「説明されていく」ということです。それに終わりはありません。なぜなら、我々研究者が挑んでいるのは、そもそも<常識>というものであり、その定義内容は「なぜだかわからないがそうなっている」という事象だからです。つい我々は「~が解明された」と言いがちですが、本当は「説明された」が正しい。なぜなら、何かしら法則や理論が提出されても、その事象がなぜ在るかという肝心要のことが解明されないからです。ですから、「説明」は永遠と続けられます。A の原因はB だ。そのB の原因はC だった。そして、そのC の原因はD だった。そしてD の原因は…というように。つまるところ、「説明できた」ことと「解明できた(わかった)」ということは違うということです。

他方の深化について。深化は、HOW やWHY ではなくWHAT。そもそも何なのかを繰り返し問うことです。自分がやりたいこと、やっていること、やろうとしていることは何なのか、そしてそれは、他者からみて、時代からみて、いったい何をしていることになるのか…。

懐疑にも似たこの問いの営みとしての深化の先(あるいは底というべきか)にあるのは、究極の<常識>としての<存在>です。在るということ。すべては在るから在る、人間もこの宇宙も。それに触れない、触れる道筋が感じられない、あるいは、触れた思考の形跡が感じられない探求(の結果)が、大勢に響くことはありません。だって、関係があまりに遠いんですもの、その探求は他者にとって。出発点は同じでも、子どもの無邪気さのような興味関心と<学問>とは自ずと異なるのです。ゆえに、そういう探求を他者に話し共感を得るには、「なぜその探求をしているのか?」という説明がどうしても必要になります。しまいには、つい「~の課題解決に役立つんです」と実利を持ち出してしまいがちですが、(産業界にとっては大切なことですが、学術界においては)これは悪手であることは、昨今の学術の現状を知る皆様に対して加筆するまでもないでしょう。私は、基礎研究、応用研究という区分けを心底嫌うものです。少し考えれば、そんな二分など意味がないとわかることなのに2)

後編につづく)