2023年8月25日 Lab.Firstを公開しました。

前編)酵母培養中のアクシデントから、世界初のお酒を開発

酵母培養中のアクシデントから、世界初のお酒を開発Lab First

大学院卒業後、一度は企業で研究・開発職に就いたものの、自分のやりたいことを自由な発想で研究したいとの思いが募り、再び大学に戻った谷時雄先生。以降、40 年程分裂酵母を使ったRNA 研究を続けてきた。1989 年には、分裂酵母の RNA 遺伝子の構造を解明し、Nature に掲載。そんな、谷先生がこの度、研究の傍ら世界初のお酒を商品開発したとのことで、詳しくお話を伺った。

谷 時雄

放送大学熊本学習センター所長

   前)熊本大学理学部大学院先端科学研究部 教授

分裂酵母を使ったRNA研究

――アカデミアではどういった研究をされてきたのでしょうか。

 私の専門は分子生物学のなかでもRNAの研究で、スプライシング反応機構やノンコーディングRNAの機能解析、mRNAの核外輸送メカニズムの解明などの研究を40 年程続けてきました。私はこれらの研究のモデル生物として、出芽酵母ではなく分裂酵母を使用しています。出芽酵母はイントロンを持つ遺伝子の数が4%もありません。一方で、分裂酵母はイントロンの数も多くあり、選択的スプライシングも受けますので、ヒトにより似た生物だろうと、こちらをモデル生物に使い始めましたね。

すでに出芽酵母を使用したRNAスプライシングの研究はされていましたが、せっかく企業を辞めて大学で一から研究を始めるのだから、全く新しいことに挑戦してみたいという思いがありました。分裂酵母を使用してこうした研究をしているグループはなかったので、面白いかなと思ったんです。

600種以上ある酵母界で分裂酵母はたったの4種

分裂酵母は出芽酵母とは異なり、ヒトと同じように二分裂で増殖し、細胞体が大きいのが特徴です。進化論的にみると、出芽酵母と分裂酵母は約5 億年前に分岐しており全く別属の酵母です。5億年前といえば、植物が地上に出てくる頃ですから、だいぶ昔の話です。

600種類以上ある酵母界において、分裂酵母はわずか4種のみしか見つかっておらず、その数からもマイナーな酵母だとわかります。その4種のうちの一つが、九州大学の圃場のイチゴから分離された分裂酵母S.japonicus(ジャポニカス)です(図1)。同じ九州ということもあり、このジャポニカスも研究に使用してきました。

図1 出芽酵母と分裂酵母ジャポニカス

培養器の故障で、偶然みつけた吟醸香

――RNA研究とお酒の開発…。専門が全く異なるように思えてしまうのですが、どういったきっかけでお酒の開発に至ったのでしょうか。

その日もいつもの通り、研究室でジャポニカスの培養液を酵母用振とう培養器にセットしてから帰宅しました。研究用の酵母を培養するため、夜間に好気的条件で振とうし、次の日に酵母を取り出すのがルーティーンでしたから。ところが、翌朝見てみると機械の故障で夜間に振とうが止まり、嫌気的条件で培養されていたんです。失敗したかなと思い培地を見てみると、いつもとは違い、泡がぷくぷくと出ていて、蓋を開けると甘くて良い香りが立ち上ったんです。その香りは、日本酒の大吟醸の香りにとても似ていました。

現在、市販されている焼酎や日本酒は出芽酵母S.cerevisiaeを用いていますが、ひょっとしてジャポニカスに変えて醸造すれば、今までにない香りや味がする美味しいお酒が生まれるのではないか、と思ったのが研究を始めたきっかけです。機械の故障という偶然から思いつきましたが、お酒は昔から大好きだったこともあり、面白そうだと研究意欲が湧きました。

熊大吟醸香高生産育種株Kumadai -T11号株の開発

酒類に含まれる主な香気成分、いわゆる吟醸香はエステル構造をもっており、官能的に快く感じられる主な吟醸香は赤字で示した3 種類ですね(表1)。なかでも、香り高い大吟醸の香りの主成分はカプロン酸エチルであり、その香りからリンゴ様吟醸香ともいわれています。

そこで、ジャポニカスのなかでもカプロン酸エチルを多く産生させる株を育種すれば、より香りの良いお酒が作れるだろうと思い、育種に取り組むことにしました。育種といっても、これまでの研究でも「変異株を分離して培養する」という作業を繰り返してきましたから、庭仕事のようなものというか、やり慣れた作業なんです。名前や目的が変わっただけで、やっていることはこれまでの研究と似たようなものです。

カプロン酸エチルは酵母の脂肪酸合成の過程(図2)で生成されており、その合成過程においてセルレ
ニンは合成の阻害剤として働いています。セルレニンの耐性株では、脂肪酸合成も進むものの、合成効率が悪くなり中間体が増え、それにより、カプロン酸エチルが増えると考えられています。そこでジャポニカスでセルレニン耐性株を育種し、それらの中からガスクロマトグラフィーでカプロン酸エチル高生成の株を探して、さらにアルコール発酵能や増殖能が良好なものを選別し、Kumadai-T11号株と名付けました。

表1 酒類における主な香気成分
図2 酵母の脂肪酸合成の過程
図2 酵母の脂肪酸合成の過程

予想通り、醸造すると香りと味の良いお酒に!

――香りの良いお酒が出来そうな酵母が見つかっても、実際にお酒を作るとなると初めての作業ですよね?

そうですね。このKumadai-T11号株を使って実際に醸造試験をしてみたいのですが、酒類の生成には
免許が必要で、自分たちだけではできません。そのため、ここからは熊本県産業技術センター(以下、センター)に協力を依頼し、試験を進めました。センターは県の施設で、県内の産業活性化に寄与するものに協力してくれる施設です。熊本は球磨焼酎など酒類の特産物が多いので、センターには酒類開発の専門家もいらっしゃいました。そこで、センターの方と相談し、まずは米焼酎の小仕込み*試験を実施しました。
*:少量で製造すること

試験後に香気成分分析を行ったところ、協会9号株と呼ばれる一般的に酒類製造で用いられる出芽酵母
で作られた焼酎に比べ、カプロン酸エチルの生成量が格段に多いことがわかりました(図3)。

ただ、ガスクロマトグラフィーで吟醸香の生成量が多いとわかっても、実際には他の吟醸香とのバラン
スなどもあり、必ずしもヒトが「良い香り」と感じるとは限りません。そこで、官能試験を実施できる専門家に味と香りのスコアリングを依頼しました。結果は、協会9 号株の焼酎と遜色なく、味に関してはより高い評価を得ることができました(表2)。

図3 米焼酎小仕込み試験後の香気成分分析
図3 米焼酎小仕込み試験後の香気成分分析
表2 米焼酎小仕込み試験後の官能試験の結果
表2 米焼酎小仕込み試験後の官能試験の結果

(後編につづく)